作者の工夫
読者の反応
選者の役割

夏 草 徳久芳拙

俳句の出来と脳の振る舞い
俳句の良し悪しに迷ったことはありませんか。
採った理由を問われて、答えに窮したことはありませんか。なぜこの句がいいと思ったのだろう。清記用紙に並ぶ句を眺めながら、どれを選ぶか悩まれたことはありませんか。
多分、句会の場で交わされる、講評めいた会話を通して、経験的に句の良し悪しを感じて選句されているのではないでしょうか。
『選句練習帖』という本がありますが、選句の練習に留まり、なぜこの句が良いかは示されません。
選句をしている脳はどの様に働いて、良し悪しを判断しているかを知ると、短歌や川柳とは違う俳句の巧妙な仕組みが明らかになります。
最も重要な詩因の問題がありますが、今回はその前段の句の篩い落としを、脳の働きから説明しましょう。
1.句が詠み上げられる時、脳は
【 調べがよくない・内容が陳腐 】
【音韻】句が長い、字余り、三段切れ、動詞が多いなど
【意味】小主観、常套句、つまらない、スローガン等

【 意味は分かりました 仰る通り 】
気持ちは分かる 観念句の類
散文臭い、即き過ぎ 説明・報告句の類
切れがない 意味の断切がない、良すぎる調べも問題
句意明瞭、描写は十分な上手い句もあります。

【 何か感じる 何だろう 】
何かある、余韻がある、この余白の意味は?
謎めいた問いの様なものに、興味が湧く
俳句の取り合わせがこれです
適度な距離だと、遠い記憶の中を探す
意味を発見すると物語が完成し喜びが発生
脳の報酬系がドーパミンを放出
理解ではなく感動に変わる
但し、離れ過ぎだと解決出来ず欲求不満に…
2.俳句は脳の働きを利用する
3 俳句の省略・切れ・配合・季語の働き
俳句の暗示は、脳の予測処理を刺激する。

4.予測誤差 発見が感動の源泉
予測が裏切られ新しい発見を生じることで、感情が揺さぶられます。その理由は、人の無意識の中にしまい込まれた遠い記憶に接続するからです。経験・記憶・文化知識の実感から生まれるものです。
これが実景を詠むことが重要な理由で、言語学では身体性と言い、記号接地するとも言います。この遠い記憶は谷内六郎の絵のような郷愁です。事実の全てではなく、良かったことや美しいことなど印象深いエピソードに、濾過されているため、感慨も一入なのです。
それはあなたの人生の集成、幻魚師は「己の影」と言われました。

参 考
脳科学
近年、心の健康を保つために、脳の働きを理解しようと『感情労働の未来』副題(脳はなぜ他者の見えない心を推しはかるのか?)1章 「感情を脳科学から考える」。著者は恩蔵絢子。脳科学はポピュラーな学問となりました。
脳科学は2000年頃に脳の活動をリアルタイムで観察(fMRI)出来るようになり、急速に研究が進展しました。
絵画の分野
絵画鑑賞と脳の反応を「神経美学」と呼び、研究が先行しています。本稿の俳句と同様の脳の働きが報告されています。
音楽の分野
昨年放送 NHK タモリ・山中伸弥の!?では、
アフリカの原住民バカ族が唱和するリズムが、予測の快楽と、予測を裏切るリズムのズレ(予測誤差)が、報酬系に働き快楽物質のドーパミンが放出されることを伝えています。


博塵集
源流をまつる祠や苔の花 吉田春子
大河の最初のひとしずくが生まれる場所――源流。そこは、古来人々が清冽な恵みへの感謝と畏怖を込め、小さな「祠」を建てて祈りを捧げてきた場所だ。
上五の「源流を」から中七の「まつる祠や」にかけて、句は静まり返った山奥の冷厳な空気を描き出す。しかし、切字「や」が静かな余韻を破ると、私たちの視線は祠の基壇や湿った石垣へと降りていく。
そこに広がっているのは、陽光を弾くほどの湿り気を湛えた苔の絨毯、そしてそこから静かに伸びあがる「苔の花」だ。
祈りの象徴である小さな祠と、自然が誰に見せるでもなくひっそりと咲かせる苔の花。大いなる水脈の始まりという「壮大な歴史」と、ミリ単位の胞子体が見せる「健やかな命」が、ひとつの世界の中に息をのむ精度で同居している。人間の信仰をも包み込む大自然の優しさと密やかな生命力の、胸にしみ入る写生である。

博塵集
営々と落人の里青田波 宮下陽子
山深い谷間にひっそりと佇む集落。かつて戦に敗れ、追っ手から逃れるようにこの地に辿り着いた落人たちがいた。
上五の「営々と」という響きが、絶望の淵から立ち上がり、手作業で石を積み、山を拓いて田を拵えていった人々の地道で途方もない努力の歳月を物語る。中七の「落人の里」という言葉には、静かな哀切と、人間の生き抜く執念が宿っている。
しかし、その歴史の陰影を包み込み、一気に解放するのが下五の「青田波」だ。初夏の強い光のもと、山風に乗って一面の青田波がそよぐ。そこに見えるのは、悲劇の歴史ではなく、幾世代の命がみごとに結実した「現在の生の輝き」だ。
青々とどこまでも波打つ青田の美しさは、先人たちが命がけで繋いでくれたバトンであり、この地に生き続ける人々への惜しみない祝福である。時空を超えた感動が風とともに駆け抜ける、景の大きな句である。

青葦の一茎恃み夕雀 佐藤富子
日没の静けさが水辺を包み込む刻。昼間の明るさを残す青葦の緑も、少しずつ夕闇の影を濃くしていく。
この句の眼目は、中七の「恃み」という一語の深い情感にある。単に「止まる」や「居る」ではなく「恃む(頼りにする・すがる)」と表現したことで、この一茎の青葦は、夕雀にとって世界の何物にも代えがたい「安心の居場所」へと高められている。
大樹でなくともいい。夕暮れの不安の中で、ほんのわずかな一本の茎があれば、生き継ぐことができる。定型が描くのは、飾りのない花鳥風月の美であり、この世界でひたむきに生きるすべての「小さきもの」への温かな眼差しだ。
夕風にゆったりと弧を描くか細い青葦と、一茎を掴む夕雀。その影の重量比は、一幅の美しい掛け軸のように美しい。心に沁み入る句である。

信濃俳句通信六月号 梓集 25頁
耕しの一打一打に土匂ふ 松澤五月
長い冬の眠りから覚めたばかりの、少し固い春の畑に立ち、しっかりと体重を乗せ、鍬を振り下ろす。
中七の「いちだいちだに」というリフレインは、決して軽快な作業ではない。一打ごとに息を吸い、腰を落とし、丁寧に大地と対話していく重厚なリズム(拍子)そのものだ。「i」の母音が連続する硬質な破裂音が、土塊を力強く砕く瞬間の手触りを読者の腕に呼び覚ます。
そして、打ち砕かれた土の割れ目から、ふっと立ち上る「土匂ふ」…。それは、土中に眠っていた幾百万の微生物や水分が、春の光と風に触れた瞬間に放つ、地球そのものの生き生きとした呼吸の匂いだ。
人の誠実な労働(一打)が、閉ざされていた大地の命(匂い)を解き放つ。手首に伝わる硬質な衝撃が、次の瞬間には柔らかく芳醇な嗅覚の拡がりへと昇華していく。生きることの根源的な歓びと、自然への揺るぎない信頼が脈打つ、極めて力強く美しい命の賛歌である

夏木七月号 朴の木集 15頁
行く春や全山怒濤の緑成し 吉岡 徹
「春が終わっていく」という切なく儚い抒情を告げる「行く春や」の五音。しかし、その惜春の静寂は、続く中七の「ぜんざんどとうの」という重々しい濁音の連打によって、一気に打ち破られる。
8音という中七のダイナミックな字余りは、定型の枠組みなど軽々と決壊させてしまうほど、山肌から溢れ出す緑のエネルギーの質量そのものだ。山裾から峰に向かって、何万、何億の樹木が一斉に芽吹き、光を求めて葉を広げる。その緑の波は、まさに荒れ狂う海のごとく「怒濤」となって押し寄せてくる。
去りゆく季節の衰退と、これから訪れる夏の過剰なまでの生の生成。正反対のふたつのベクトルが、山という巨大なカンヴァスの上で衝突し、至高の交響楽を奏でる。春は去るのではない。自らの生命を極限まで燃やし尽くし、この眩い「全山の緑」へとその身を変えながら、夏という次の時代へ向かうのだ。聴覚をも痺れさせるような、圧巻の生命賛歌である。

夏 爐 六月号 夏爐集 41頁
清明や王墓離るる白き雲 小村たつ子
春の光が極限まで澄み渡り、万物が清らかに輝く「清明」の節気。風すらも透明な輝きを孕む空の下、地上には数千年の沈黙を抱えた古代の「王墓」が、静かにその巨体を横たえている。
切字「や」によって、時の流れが一瞬だけ凝固したあと、中七の「おうぼはなるる」という滑らかな音律とともに、静かなドラマが動き出す。「はなるる」というラ行の流れるような響きが、王墓の頂から、手繰り寄せるものもないまま、滑らかに離れていく一つの雲の浮遊感を完璧に表現している。
地上に留まる肉体や歴史(王墓)と、天へと解き放たれていく流動体(白き雲)。それはあたかも、清明の光に導かれた古代の王の魂が、悠久の時の束縛を脱し、純白の雲となって天空へと昇天していく儀式のようだ。極小の言葉で描かれた、壮大な精神の旅路である。

俳句人 七月号 あらくさ集 68頁
春霖の一粒ごとの葉の青さ 野口由紀
降り続く春の雨「春霖」は、世界をうす甘い灰色の膜で包み込んでいく。しかし、その静かな雨の中に足をとめ、一枚の葉へと極限まで顔を近づけたとき、世界は劇的な変貌を遂げる。
「春霖の」から「ひとつぶごとの」へと続く助詞「の」のリフレインは、カメラのレンズが被写体へとぐんぐんズームインしていく軌跡そのものだ。葉の上に散りばめられた無数の水滴。その一粒一粒が、まるで顕微鏡のレンズのように機能し、下にある葉の細胞や脈打つ緑を鮮やかに拡大してみせる。
雨は植物を濡らすだけのものではない。葉の上に無数の「光の玉」を置くことで、そこにある生命の輝きを何倍にも増幅させているのだ。下五の「はのあおさ」に到達したとき、読者の視界には、水滴を纏って瑞々しく発光する生命の「青(緑)」が、眩いばかりの解像度で焼き付けられる。

みすゞ七月号 七月集 41頁
母の日や母として過ぐ半世紀 久保田幸江
喧噪にも似て「母への感謝」を繰り返す春の日。しかし、心は静かに自らの内面へと潜っていく。そこには、半世紀という時を「母」として生き抜いてきた一人の人間の、凛とした精神の肖像が浮かび上がっている。
「半世紀」という下五の言葉は、単なる数字の記録ではない。それは、昭和・平成・令和という時代を超えて、家族の歴史を支え、命を育んできた重厚な記憶の結晶だ。飾りのない5・7・5の定型が、誇り高ぶることもなく、謙虚に、しかし堂々と自分の半生を受け入れている作者の佇まいを写し出している。
かつては「子」であったのが、いつしか「母」となり、そして半世紀の時を経て、家族の要となっている。家族の歴史を思いつつ、無事に子供たちを育て上げることができたという静かな安堵感。自分の人生を「母」として生き切ってきたことの密やかな誇り。静かに50年の歳月を抱きしめるような句である。

ゆ め六月号 同人作品 11頁
夜桜の一枝伸びる寺の路地 児玉淳子
昼間の賑わいが嘘のように去り、すべてが深い藍色の闇に包まれた寺の境内。そのひっそりとした「路地」を歩くとき、世界の輪郭は静かに溶け出し、私たちの足音だけが微かに反響する。
閉ざされた暗がりへ向かって、中七の「ひとえだのびる」という言葉が、まるで闇を穿つようにしなやかな軌跡を描く。まるで意思を持っているかのように、塀の向こうから、あるいは闇の底から、私たちの視界へと「伸びて」くる一枝の夜桜。
「よざくらの」という上五の柔らかな響きが、夜気の冷たさと花の気高さを同時に包み込み、下五の「てらのろじ」という落ち着いた着地へ向かって、静かな物語を紡ぐ。
暗い寺の壁面と、そこに鮮やかに浮かび上がる白き花びらの対比。日常の空間のすぐ隣に、春の夜だけが出現する「妖しくも美しい異界の通路」がパッと開かれるような、息を呑む一瞬のスケッチである。

りんどう六月号 雷鳥集 20頁
白亜紀の地層くつきり初蝶来 中村恭子
一億年もの地球の記憶を抱え込んだ「白亜紀の地層」。春の澄んだ光の中に、その積層の模様が「くっきり」と幾何学的な影を描き出している。太古の昔、恐竜たちが生きていた時代も想像される、岩壁は、動くことのない「時間そのものの化石」である。
そこに、どこからともなく一頭の蝶がひらりと舞い降りてくる。「はつちょうく(初蝶来)」という結びの言葉とともに、静止していた太古の画面に、いま目の前の「生の躍動」が吹き込まれる。
一億年という圧倒的な「不動の過去」と、生まれたばかりの蝶が描く「一瞬の現在」。この途方もない大きさの対比が、定型の中でみごとに調和している。
弱々しくも光を浴びて羽ばたく初蝶の存在は、どれほど世界が古くとも、春は巡り、命は新しく生まれ変わり続けるという「地球と生命の祝福」を、静かに、そして誇らしく告げている。