くろひめ質問箱

 目 次
  1. 初心者は「型から入る俳句」のほうが句になり易い理由を教えて下さい
  2. 今、現在、この一瞬を詠えと教えられました。何故でしょうか
  3. 俳句作品は一旦作者の手を離れると無関係に一人歩きするのではないですか
  4. 句評で報告句、説明句になると、よく聞きますが、それはどの様な句ですか
  5. 即き過ぎと言う句評を、どう理解し作句表現に注意したらよいのでしょうか
  6. 季重なりについて黒姫の見解を聞かせて下さい(他に2件)
  7. ラベンダーは夏の季語でしょうか
  8. 二句一章の特徴を、実際の作品を通してご指導下さい(他に1件)
  9. 題はどの様な思いや考えをもって付けられているのでしょうか
  10. 旅の句で用いる固有名詞について注意点を教えて下さい
  11. 忌の俳句の作り方について教えて下さい
  12. 吟行上の心得を教えて下さい

 

型から入る俳句

【質問】初心者は「型から入る俳句」のほうが句になり易い理由を教えて下さい。この考え方には同感できます。

【回答】俳句も茶道と同じ様に、型から入ることも一つの考え方だと思います。俳句を始めたばかりの方は、何故、季語が必要か。定型を守る必要があるのか。旧仮名遣いで作る必要があるのか等、結社の作句ルールに疑問を感じる方があると思います。その場合、理屈は別として型から入ることが、俳句を身につける早道とも言えると思います。野球の王監督は、現役時代に一本足打法で不朽の本塁打王になったことは、余りにも有名な話ですが、これも、「一本足打法」のフオームを確りと身に付けたからだと思います。

あらゆる投球の球筋に対して応用の利く基本の型が確実に身に付いたからだと思います。三百年有余の歴史を持つ俳文学の型には、幾多の先哲が苦しみながら築いた道筋があります。その先哲の築いた、世界に誇れる短詩形文学としての俳句の型には、深い意義が存在します。何故、そうあらねばならないかは、その意義も含め句会を通して、ご一緒に実戦で学びたいと思います。
(スポーツではないので、実戦ではありませんね。実作ですね。)

黒姫主宰 神田北童
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この一瞬を詠え

【質問】俳句は、今、現在、この一瞬を詠えと教えられました。何故でしょうか。過去の回想句を作ってはいけないのでしょうか。

【回答】石田波郷は昭和二十一年俳誌「鶴」の復刊にあたり「俳句は生活の裡に満目季節をのぞみ、蕭々又朗々たる打座即刻のうた也」と俳句に対するその信念を吐露しました。(打座即刻=今現在の一瞬の)

また、芭蕉が「三冊子」のなかで「物の見へたるひかり、いまだにきえざる中にいひとむべし」と言ったのはあまりにも有名なことです。

このように俳句とは今現在の一瞬を詠むというのが詠み手と鑑賞者の間で暗黙の了解事となっています。仮に詠み手が過去の回想句を詠んだとしても季語との関わりあいにおいて非常にインパクトの弱いいわゆる甘い句になってしまい、鑑賞者にとっては詠み手の独りよがりとしか感じられません。

過去を振り返るという想いもわからないではありませんが、実作者として今現在の一瞬に感動を覚えた瑞々しい句を一つでも多く創りたいものです。

【回答】2008.7.25 くろひめ質問箱事務局 石田経冶
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俳句作品は人生そのもの

【質問】黒姫365の主宰の言葉に「芭蕉は人生如何に生くべきかを俳句を通し追い求めた」とありますが、俳句作品は一旦作者の手を離れると無関係に一人歩きするのではないですか。
 

【回答】難しい質問ですね。独文学者・高橋義孝の言葉に「芸術作品と現実との間には、人間の親と子の間に見られる様な関係がある。丁度、人間の子供が臍の緒を断ち切られて、この世に生まれでると、彼はもう親とは関係ない一人格であって、彼の持つすべてを親に還元できない。」とあります。

芭蕉の俳句は、果たして親を離れた子であるでしょうか。私はそうは思いません。芭蕉は一生涯をかけて俳句に打ち込んでます。従って、俳句作品も人生そのものです。臼田亜浪は「俳句道即人間道」と主張もしてます。

俳句作品ほど、作者の人生と切り離せないものはないと思います。黒姫誌の理念もこの考え方に基いてます。現代俳句では作品の一人歩きする芸術性を求める流れもあります。しかし、私は、俳句の表現能力の可能性を求める手段としては許せても基本的には賛成しかねます。この問題は、最後には、作者の生き方に辿りつくと思います。(回答者 神田北童)

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報告句、説明句

【質問】句評で報告句、説明句になると、よく聞きますが、それはどの様な句ですか。又、そんな句を作らない様にする対策はありますか。

【回答】報告句、説明句はこの様なものだという明確な基準はありません。
読者の解釈により異なることがありますが、一般的には事実をありのままに報告したり説明したりする句で、状景を単語そのまま三段切れで並べたり、因果関係や原因と結果を述べたり、名所旧跡等の固有名詞を絵葉書の如く十七文字にしたり、三段論法で作ったりする句等です。

その様な句を作らない様にするためには、切れや切字、季語の象徴性いろいろな比喩・擬音語・擬態語・古語等の表現技法を身につけて作句の幅を広げることが基本だと思いますが一朝一夕にはいきません。先ずは、己の実作を通し指摘を受けて学ぶことだと思います。そして、大切なことは句を作る姿勢にあって、眼前のものをむやみに十七音にまとめあげる俳句では無いということです。

高浜虚子の言葉
「@じっと眺めいるAじっと案じいるBそこで、心が働いたもの一つを天地万象の中から捕らえよ」
を参考にしたいと思います。(2011.1 回答者 神田北童)

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即き過ぎ

【質問】「即き過ぎ」と言う表現で句評の折に耳にしますが、どう理解し作句表現に注意したらよいのでしょうか。お尋ねします。

【回答】俳諧の時代から、俳句の作り方として、@一物仕立て・とA取り合わせ・があります。
このA取り合わせの句で、主に指摘される言葉です。取り合わせとは、季語といろいろな句材を取り合わせ(配合)して一句を作る形式です。

その場合、季語と他の句材が「付かず離れず」の取り合わせが理想的ですが、しばしば、付き過ぎ(密接なつながり)を起こすことがあります。具体的には、季語と取り合わせる言葉が、余りにも接近しすぎ、同じことを重複して表現したり、過剰な表現になったりする場合と、季語を説明しようとしたり、慣用語を、接続したりする場合等です。季語以外の句中の言葉同士でも、付き過ぎも起すことがありますから注意しなければなりません。即きすぎの句は奥行きが無く、常識的な句になります。(回答者 神田北童)

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季重なり

【質問】一定の基準を設けるのは困難と思いますが、「季重なり」の問題について、私も自分なりの戒めを持っています。しかし、最近俳壇ではかなりの季重なりがあります。もう一度、この件について黒姫の見解を聞かせて下さい。

【回答】(主宰回答)
黒姫として成文化されている訳ではありませんが、季語を大切に扱う前主宰の考え方を踏襲しています。その考え方を前提に、現在の選句基準としてますが、二十一世紀を生きるに相応しい季語の存在も、追及してゆきたいと思いますので、句の内容による判断も適宜、加味しているつもりです。

現在の基本的な考え方の要点を次に記します「季重なりは出来る限り避ける。もし、どうしても季重なりになる場合は、主季語、従季語の関連を明確にする。どちらの季語が一句の主題(句の中心)に属するかを分かり易くする。(季語を切れで強調する手法等)その意味では異なる季節の季重なりは避ける。

季感の無い季語への対処は句意の成り立ちで判断する。」この見解は至極一般的なものであると思いますが、先ずは、一句一季語で己の感動を述べる俳句作りに専念すれば、季重なりの危うさが見えてくると思います。 季重なりが安易に行われる傾向に対しては、俳諧を母体とした歴史的背景のある、十七音有季定型詩に於ける季語の存在の重要性を認識してるか否かが、作者に問われるべきだと考えてます。

季語の存在を疎かにしてはならない事は無論ですが、原点に立ち返り、季語の働きを身につけることも、季重なりをしない為の重要な要件だと思います。

次に掲げる事務局の見解も参考に、「季重なり」に対し、今後、結社としてコンセンサス作りを、改めて行いたいと考えています。・・・神田北童

【回答】(事務局回答)
ほとんどの俳句入門書では「季重なり」を俳句の禁止法則のひとつとしてとりあげています。その理由としては前にも触れましたので割愛させていただきます。一句ができる過程として、句会などの場で兼題や席題として季題がだされそれに基づいて作句する場合を別にして、通常は眼前の景に触発され、その感動を季語の暗示する力を借りて作品にするとい方法を取ります。

ごくまれには、二つの季語が主と従の関係で一句の中に詠み込まれたりもします。ここで大事なのはその句が真実生な感動の発露で生まれたものなのかということです。作品にリアリティーがあり、感動の焦点が絞られていれば「季重なり」でも一句は成立するのではないでしょうか。

ただし、感動というものは往々にして独りよがりのものであることも事実です。出来上がった句について「季重なり」の必然性があるのか推敲してみることも必要です。はじめに「歳時記」ありき、という作句態度を改めてみることで「季重なり」に対する答えが見えて来そうです。・・・石田経治

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【質問】季重なりを避けるべき事は理解してるつもりですが、眼前の風景を写生句にすると、どうしても季語が重なってしまう場合があります。その時はどの様な事に注意すべきでしょうか。具体例を挙げます。「先日体験したことですが、どんよりとした雪空に白鷺が飛んでいました。その白鷺の純白色が背景の空から浮き出ていたのです。

雪催舞ふ白鷺はなほ白し

と詠みました。雪催(冬)白鷺(夏)・・季重なり」ご指導を御願いします。
 

【回答】「季重なりは、季節への感動の焦点が分散し散漫になったり、主題も不明確になったりする恐れがあります。ですから、初心のうちは季重なりは避けたほうがいいでしょう。但し、それは絶対的な忍者の掟のようなものではありません。季重なりの名句もあります。 例えば

@ 啄木鳥や落葉を急ぐ牧の木々・・・水原秋櫻子
A 病雁の夜さむに落ちて旅ね哉・・・松尾芭蕉

は季重なりの名句ともいわれてます。この場合、主たる季語と従うべき季語があり、主季語に従季語が吸収される、即ち、従季語は、主季語を生かし主題を明確にする役割を果たすと考えます。(主季語・従季語という言葉はありません。念のため)

@の主たる季語は啄木鳥、Aの主たる季語は雁だと思います。実作者の立場から申し上げますと、一句のなかに緊張感が漲りただいま其処に生きていることに満ち溢れ人の心を揺さぶることが出来る句なら、季重りであろうが何であろうが構わないのですが、残念ながら現代俳句ではそのような句にはなかなかお目にかかれません。

なぜなら俳句において季が重なる云々よりも季が働く云々のほうがより重要であるからです。季語とはいかなるものでどんな働きをするかを考えるほうが季重りの問題より重要なことだと思います。こんな答えでは初心の方はますます混乱しますね。俳句を始めたてのかたに季重なりを結社の主宰が指導しますのは、ある意味で型から入った方が句になりやすいからです。

その上で季語(の働き)について考察されてみてはいかがでしょうか。以上の様な見解から、ご質問の例句・・雪催舞ふ白鷺はなほ白し・・・を眺めますと、「雪催」「白鷺」の二つの季語が相乗効果をあげ、主題を明確にしているとは感じられません。更に、座五の「白」のキーワードは、季語自身が語ってくれるもので、わざわざ、白と云うのは冗漫だと思います。一句の中に盛り沢山に風景を盛り込むのではなく感動の焦点を絞るという意味からも、季重なり、季ずれは避けたほうが良いかと思われます。

【回答】くろひめ質問箱事務局 石田経冶
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【質問】季重なりについて、今まで色々な指針をいただいてますが、
黒姫会員として、どの様に対処すればよろしいでしょうか。

【回答】黒姫誌へは、原則として季重なりの無い俳句を投稿して下さい。
一般的には、初心者は特に重季を避けるべきといわれております。季語は俳句の核心的存在です。虚子の言葉に「俳句は季の文学であり、季がなければ俳句は滅びる」と言わしめてます。複数の季語が存在したら、季語が引っ張り合いを起こし、季の核心が定まりません。

しかし、どうしても季語を二つ以上使わなければならない時は、主と従の優劣をつけよ。その場合でも、季節の異なる季語の同時使用は避けよと指摘されてます。確かに、季重なりの句は古来より沢山あります。

病雁の夜寒に落ちて旅寝かな   芭 蕉
啄木鳥や落葉をいそぐ牧の木々  秋桜子

この例句の作者は意図を持って意識的に、主季語を引き立てさせる為に季語を重ねたと考えます。然し、私達結社では、季語が句の核心の大半を受け持つと考え、一句一季語の原則を守りたいと思います。

紫晃名誉主宰は黒姫二百十に重季の指針を明示されてます。「主季語と従季語の情感詩情の把握が出来ない時は、一句一季語を確と守るべきである。基本は原理なり。物事には総て原理がある。それを弁えずに飛び越えて応用から入るべきではない。」(2011.3 回答者 神田北童)

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ラベンダーは、夏の季語

【質問】歳時記にラベンダーが載っていませんが、夏の季語でしょうか。教えて下さい。
 

【回答】

ラベンダー咲かせり彼の地に吾子在れば   平井さち子
ラベンダー畑や夕日を瑠璃色に       青柳志解樹

(例句平井氏は俳誌「萬緑」同人、青柳氏は俳誌「山暦」主宰)

手元の2006年角川学芸出版発行の角川俳句大歳時記には夏の季語として掲載されております。花期が5月〜7月であるラベンダー(の花)として詠まれています。

手元の他の歳時記にもインターネット上にも例句は散見されますので季語の普遍性としても問題は無いと思われます。掲載されている季語は出版社・編集者により様々です。他にも珍しい季語・新しい季語を歳時記やインターネット上で検索されてみることをお勧めいたします。

【回答】2008.7.25 くろひめ質問箱事務局 石田経冶
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二句一章

【質問】「添削の栞」にありました二句一章の特徴を、実際の作品を通してご指導下さい。
 

【回答】二句一章とは大須賀乙字が提唱したもので、俳句の中に季語を入れて季語を含む部分とそれ以外の部分に分けると、二つの概念が融合して一章を形成するという考え方です。

詳しい内容については2008年1月1日付けの黒姫質問箱で主宰が述べられている通りですが、
「せせらぎ句会」より例句をあげてみます。

木の目晴(句切れ)鎮守の杜は盛りあがり   酒井とも江

「木の芽晴」と「鎮守の杜」の二つを同一場面での景として融合してイメージを膨らませています。

初春や(句切れ)平凡に生く余生欲し     久保田清子

「初春」は実景、「平凡に生く・・」は同一場面の景ではなく作者の想いです。関係としてはそれぞれ独立してますが、独立した二つのフレーズが対比され強く響きあってます。二句一章として代表的な例をあげてみました。感動のイメージをどう表現するか、二つの違いを他の句でも味わってみてください。

【回答】2008.5.29 くろひめ質問箱事務局 石田経冶

コメント・・初心者の方へ 最初は、二句一章(俳句の形)に拘らず句作りをしましょう。 北童

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【質問】二句一章という言葉をよく聞きますが、取り合わせと同じ意味ですか。
 

【回答】二句一章と取り合わせとは別々に解釈すべきです。
二句一章は一句一章に対するもので、俳句の形、姿です。即ち、十七文字が二つに切れてる場合は、二句一章ですし、切れてない場合は一句一章です。

「取り合わせ」とは、俳句の内容。意味を表現する手段です。
「取り合わせ」に対して「一物仕立て」があります。従って、二句一章でも、取り合わせの句と、一物仕立ての句があるし、一句一章でも一物仕立てと取り合わせの句があります。

具体的にそれを学ぶ場合は、句会の中で詠まれ作品を分析するのが、一番手っ取り早く、身につけられます。あなたの句会で、一度、二句一章と「取り合わせ」の句がいくつあるか、検証して見て下さい。(回答者 神田北童)

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題名の付け方

【質問】博塵集・机塵集に夫々「題」が付けられていますが、「題」はどの様な思いや考えをもって付けられているのでしょうか。又、「題」をどの様に受けとめて読むと良いのでしょうか。
 

【回答】「題」の付け方については、ルールはありません。いろいろな方法での「題」の付け方があります。次に、「標題考」という、黒姫名誉主宰望月紫晃師の一文を記します

  1. 群作の中から、ユニークな季語や語彙をピックアップする
  2. 同一素材の作品が数ある場合には、その素材をテーマにする
  3. 一連の作品中、会心の作品から、そのモチーフを拾う
  4. 吟行、句会等の席で賞賛を得た作品中よりスクーフする
  5. 旅吟の場合、その目的地、行楽地等の地名を付する
  6. その語彙を持つ作品は無いが、群作全体のフイーリングから付する
  7. 群作の冒頭句の季語をとる

アンソロジーがその人の人生史であるならば、特別作品はある期間の処世史であり、又、月例作品はその作者の一ケ月の生活記録でもある。従って標題は夫々の歴史表徴といえる。画龍点晴を大切に。(黒姫誌二六〇より転載)

以上の通り、題の付け方は作者自身の考えに任されていると考えて下さい。自分の発表する作品群に画龍点睛を果たす働きをすることを心掛けることだと思います。従って、題名から受け止められるものは、作品に込めるメッセージの芯であると考えたいものです。という事は、作者が「題の付け方」も問われる訳です。(回答者 神田北童)

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固有名詞

【質問】旅の句で用いる固有名詞について注意点を教えて下さい。
 

【回答】旅吟や吟行で用いる固有名詞については、以下の要点を参考にして下さい。

  1. 固有名詞によりかからず、固有名詞のムードに溺れず、固有名詞の中に入り込みそのイメージを広げるつもりで句にしよう。観光案内書から切り取った様な表現に注意しよう。固有名詞に纏わるさまざまな事象は、その旅を体験した者には理解できるが、第三者には理解できないことが多い。句ができたら「旅」から離れ、もう一度、客観的に自分の句を眺めてみよう
  2. 固有名詞と季語との関係について句が完成したら再検討してみよう。季語を取ってつけた様な句になっていないだろうか
  3. 固有名詞に関わる、歴史、風土、、文化、地理等の予備知識を得ておこう
  4. 固有名詞に付随する詩歌文芸を調べておこう

芭蕉は漂泊の旅の中で固有名詞を織り込んだ俳句を沢山残しています。その時の芭蕉の心に思いを馳せることも、旅の句を作る参考になると思います。芭蕉の旅は「一期一会の心構えの旅であり、再び行くという保証のない出会いを求めた因縁和合の旅である」と言われてます。そんな気持で私達も旅の句を作れば、自ずと固有名詞も句の中に生きて来ると思います。(2010.9 回答者 神田北童)

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忌の俳句

【質問】「忌の俳句」の作り方について教えて下さい。
 

【回答】忌俳句は下記の三つに分かれます。

  1. 自分の肉親、知人、尊敬する師、先輩等尊上の忌に接して作る句
  2. 忌日俳句としては、一番純粋で、故人を偲び追慕、憧憬、尊敬等の念を込めて作られる

    子規逝くや十七日の月明に       高浜虚子
    葡萄あまししづかに友の死をいかる   西東三鬼
  3. 忌日を季語として用いて、その固有の響き、匂いを織り込み作る句
    (この場合、歳時記に忌日が季語として掲載されている)
  4. 故人を偲ぶというより、己の俳句を完成させるための起点の季語としての活用である。故人よりも作者が主体の句意となる。(私小説的な忌俳句と称してる人もいる)

    垂れ込めて腹くだしたる我鬼忌かな   石田波郷
    糸瓜忌や雑詠集の一作者        高野素十
  5. 俳句の構成上、〇〇忌として切字的な使い方をして作る句
  6. 「忌」という文字の切字的効用としての用い方である。「西行や」「蕪村かな」を「西行忌」「春星忌」として使う方法である。

    人々の座に置く笠や西行忌       石田波郷
    燭の火を煙草火としつチエホフ忌    中村草田男
(2010.1.3 回答者 神田北童)
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吟行上の心得

【質問】吟行上の心得を教えて下さい。
 

【回答】中村草田男著「俳句入門」を参考に、私の所見もまじえて、下記にお答えします。

  1. 季語のデッサンをしよう。
     眼前の風景の中に季語を見出し、その風景を具体的にメモしよう。
  2. メモは十七音にまとまらなくても、まず、短文にしてみよう。
     短文はあなたの打座即刻の詩である。後刻、その中から十七音に仕上げよう。
  3. 眼前の風景との思いがけない出逢いの喜び、驚き、をメモしてみよう。
     この風景との出会いを・・邂逅の恩寵・出逢いの僥倖と、とらえよ。
     風景に感動することは、素直に喜び、素直に驚き、素直に呼びかけようとする心なのだ。
  4. あらかじめ、目的地の地図、固有名詞、歴史風土、関連詩歌等を調べ予備知識を得ておこう。
  5. 固有名詞を詠む時は、固有名詞によりかからず、固有名詞のムードに溺れず、
    固有名詞の中に入り込み 、そのイメージを広げるつもりで句にしよう。

黒姫名誉主宰・望月紫晃氏の言葉・・・吟行の魅力・・・
「間口が広いので誰にも入り易く、奥行が広いので、たやすく抜け難いという、俳句の麻薬的魅力は吟行にあり、その句会にある。吟行にでよう。気脈を通じた数人が理想的、僻地の旅館に宿を得て談論風発、一夜を明かすことが出来たなら、まさに俳人冥利というべきであろう。」

回答者・黒姫主宰 神田北童
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