黒姫俳句会とは

黒姫のルーツを探る

第三の俳句道に連なる「黒姫」・・・
近代俳句史を築いた三つの流れの一つに、「黒姫」の源流があった。

(平成二十四年七月七日・神田北童記)

明治三十年・正岡子規(1867〜1902)俳句革新をした現代俳句の原点

@ 新傾向俳句

明治三十五年・河東碧梧桐(1873〜1937)
新傾向の句風を宣揚、感覚的、写実的傾向の俳句・更に自由律俳句へ
大須賀乙字、萩原井泉水等

A 伝統俳句

大正二年・高浜虚子(1874〜1959)
伝統俳句へ復帰して、花鳥諷詠・客観写生を主張、水巴・蛇笏・普羅等大勢の門人を輩出する

B 第三の俳句道

大正四年・松根東洋城(1878〜1964)・青木月斗(1879〜1950)
青木月斗―永尾宗斤―渡邊幻魚(黒姫創刊者)
(青木月斗を、子規は「俳諧の西の奉行」と称した)

青木月斗(1879〜1950)

大阪の薬種業商(快通丸・天眼水本舗)に生れ、子規選の新聞俳句に入選以来、子規俳句を師事し大阪で子規派の句会・三日月会を創立し指導して子規を敬慕した。妹が碧梧桐の妻になったこともあり、新傾向俳句にも理解を示した。然し、守旧の立場に復帰し「同人」を創刊。
作品中心主義で、俳句は情を根本に自然に身を投じ感受したものを詠うものであると説いた。
(子規の月斗への挨拶句・俳諧の西の奉行や月の秋)

その門下生である永尾宋斤が、黒姫の原型「海市」を発行した。

永尾宋斤死後、「海市」は昭和二十一年五月「桑天」と改題した。

永尾宋斤(ながおそうきん)の遺訓。(昭和二十一年五月「桑天」巻頭掲載)

「韻」   永尾宋斤
       
 その俳句 読みて眼にしづかなるべし 
 詠じて朗々たるべしおもひ句の中に満ちて 
 句のそとに出でざるを要す
 然して 句の外に溢れ漲るものは     韻なり

更に、渡邊幻魚が引継、改題「黒姫第16号」として、昭和二十二年六月、創刊。

戦後の混乱と物資不足の地方都市では、文芸誌発刊継続は困難を極めたと思うが、幻魚師の生来の多感な詩魂とバイタリテイ―は、周囲の同志を募り長野俳句ペンクラブの創立を実現し、更に、日本俳句作家協会の創立発起人としても名を連ねた。

その後、草田男の俳句道に傾倒し「萬緑」に参加、昭和二十六年同人推挙を受け、一層、師としての草田男との距離が近くなり、屡々、長野へ草田男を招聘して指導を仰ぎ、黒姫との交流を図った。

渡邊幻魚の俳句活動は、他文芸誌、新聞への執筆・俳画指導・成人学校講師等多彩で、長野市文芸協・現在の長野県俳人協会発足のために要となった。

“幻魚の俳句精神”の一端“

渡邊幻魚「作品は己の形であり影である。分身である。われに辞世句不要、五十年日々の一句が、即これなりと、枯野の夢を末期の床に吐した芭蕉を真似出来かぬるとも、心はこの心でありたい。」

「人に阿ず、人に衒わず、詩眼で人の心を見抜ぬけ。オポチュニストや売名的な人を避けよ。」

「句は無用の用である。小用であるか大用であるか各々の自由である。然し、無用の長物にだけはしたくないものである。」

(註)無用の用:荘子の言葉・・無用とされているものが、かえって大用をなすこと。

「面白ろ、お可笑しでは、俳句はできない。
余技であっても、戯れ事ではない。退屈しのぎではない。」