随想 神田北童2

神田北童

 目 次
  1. 俳句に求めるもの1〜6 (全国俳句ダイジェスト 俳壇抄寄稿)
  2. 最晩年の芭蕉の足跡を辿る1〜4
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  1. 俳壇抄 俳句に求めるもの1〜6
  2. 最晩年の芭蕉の足跡を辿る1〜4

 

俳句に求めるもの その一

神田北童

俳句を趣味として、すでに半生を経てしまった。作る・読む・選ぶことの繰り返しで、立ち止って「俳句に何を求めてきたのか」と考えることは無かった。前方に余生が見え隠れする現在、そろそろ、俳句を趣味としてきた生き方を棚卸する時が来た様だ。作家の辻邦生氏が随筆の中で、「イギリス人の人生観は、人生そのものを愛することの様なので、イギリス文学は、人生体験を愛する文学と言える。」と記してるが、この一節をふと思い起こした。そしてこの一節と、今、私が考えを巡らそうとしていることに脈絡があることに気付いた。

「現代俳句は芭蕉発句の風雅観に縛られやせ細ってしまった」という見方をしている人がある様だが、芭蕉の主張する風雅観の背景には、芭蕉の全人生がかかっていたことを見逃してはならないと思っている。見方を変えると、イギリス文学と芭蕉の目指した俳句は同じ視点に基づいているのだと思っている。「芭蕉に返れ」という動きは、過去、幾度か俳壇で繰り返されたが、現代俳壇であまり話題にされてない。

むしろ、多彩な表現術、多彩な主張、多彩なパフオーマンス、多彩なメデイアの活用等が主流となり、「俳句に何を求めるか」等という素朴で、マイナーな自問は隅に押しやられていると思えてならない。自己主張と個性が優先される現代社会の一端なのかもしれない。「たかが趣味の世界にそんなに難しいことなど不要」と言われればそれまでであるが、残された人生で俳句に割く時間が、かなり占めるとするならば趣味にも目的意識を持って臨みたいと、私は思っている。具体的には次の機会に述べてみたい。(続く)

俳壇抄(2010年 夏・秋季号 下段)
(全国俳句ダイジェスト 第35号)

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俳句に求めるもの そのニ

神田北童

前回(その一)で「残された人生に俳句を趣味にするなら、目的意識を持ちたい」と述べた。それでは、それが何なのか、私の個人的な見解を述べたい。中村草田男師が昭和五十四年に書いた文章に次の一節がある。「現在の俳句界も、明治期から百年を経て、あらたな教養主義に分解、分散化している様に思う。求道ゆえの偏りや硬直など無くしてしまい、うぶうぶしいシロウト臭さなども無くしてしまい、洗練された芸人(アーチザン)がお互いに肩を叩いて、その教養を誇り合って楽しむ、いわゆる“かるみ”の世界になってきたように思う。そういうことであってはならず、文学を第一義的な“いのちの道”だと考え、“自然・自己一元の上に”絶対的なものを求めて、まかり間違ったら死んでもいいと気持でいきたいと思う。」

この文章は平成の世でも色褪せないと思ってる。もっとも、私の理解力では、文章の真髄を知ることは無理なので、私流な断片的な理解にとどまる。「求道的な偏りと硬直さ」「うぶうぶしい素人臭さ」「いのちの道」という文言が特に私の脳裏に刻まれた。その背後に草田男師の「文芸の道」と「人生の道」とを一致させる実践の歩みがあることは勿論であるが、殉教者のごとく芭蕉を師表した一貫した人生が存在するのであろう。

「俳句を単なる芸では無い」とするならば、自ずと向き合う姿勢は変えなくてはならない。カラオケやツイッターとは本質的に異なるのであり、俳句を単なる趣味と考えることにも疑問符を投げかけなくてはならない。勿論、俳句を楽しむ姿勢を否定する訳ではない。ただ、「いのちの道」と拘る俳人も居て、俳句の歴史は受け継がれるのも事実である。(続く)

俳壇抄(2011年 冬・春季号 下段)
(全国俳句ダイジェスト 第36号)

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俳句に求めるもの その三

神田北童

前回(その二)では、「草田男師の「文芸の道」と「人生の道」とを一致させる実践の歩みの中で、常に、殉教者のごとく芭蕉を師表した一貫した人生が存在する。」と述べたが、その裏付けについての文章を次に紹介する。(昭和三十二年の草田男論文「現代俳句と芭蕉」を香西照雄氏略述)

芭蕉は俳諧を自己の生き方を探求する方途とした。彼は諸行無常の嵐の前に晒されつづけることによって、生命の不思議さと尊さに目ざめ、その自己を単なる本能と我欲と自意識の中に封鎖される存在に終らしめず、「造化にしたがひ、造化にかへる」、すなわち、小我を否定した大我に還ることによって、自己の魂を浄化し、また自己の生命を永遠化、絶対化しようとした。 封建社会に生きるため、自他の救済は容易にはなし得ず、自然への逃避及び諦念で人生問題を解決しようとした知恵ではないかとという見方もあるが、私はそうは思っていない。もし、そうであるならば、俳諧というまわりくどい方策ではなく、もっと具体的な手段があったのではと思われる。

西行法師(504年前)、鴨長明(482年前)、吉田兼好(363年前)等の先人の生き方を、芭蕉は既に熟知していたことは論を待たない。むしろ、芭蕉は俳諧ひとすじの道に全てを純化することが解決の道と悟ったのではと思われる。そこに芭蕉の偉大さ、深淵さがある。天才的な詩人に止まらず、人生観、自然観、宇宙観を俳句に透徹できる哲学的視野をも備えていたと思われる。そして、その考えを自らの行動で実現を試みたており、命終の間際までその意志を持続した信念には、畏敬の念をいだくのみである。絶句「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」がその全てを物語っている。 「俳句に求めるものとは何か」という命題を追い続けているが、この俳聖芭蕉の軌跡を辿ることが、どうやら、その答の道筋ではないかと思えてきた。(続く)

俳壇抄(2011年 夏・秋季号 下段)
(全国俳句ダイジェスト 第37号)

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俳句に求めるもの その四

神田北童

芭蕉の句「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」については、俳誌黒姫三八二号で私流解釈を試みたが、句意を「旅の途中で病み、臥していると、夢の中で、己が粛条たる枯野をかけ廻っていた。」として、更に、その芭蕉をして枯野をかけ廻らさせたものは、俳句ひとすじの道への執着心一念であり、風雅の誠への探究心なのだと、私なりに誌上では結論をしてみた。

草田男師の言葉を借りれば、「己の魂を浄化し、己の命を永遠化、絶対化しようとした」姿勢なのである。芭蕉の偉大さは、天才的な詩人に止まらず、人生観、自然観、宇宙観を俳句に透徹できる哲学的視野をも備えていることにある。更に、その考えを自らの行動で実現を試み、絶命の間際までその意志を持続したことにある。

現代俳人の中にも、芭蕉の様に「人生如何に生くべきか」に答えて俳句を作っている人も居ると思うが少数派だろう。現代俳句は多様化し、混迷の兆しを感じる。マスコミを通し、俳句の大衆化が一段と進められ、新しさを求めようとしてるが「俳句の新しさ」は表現の新しさ、素材の新しさのみでは無いことをもう一度見直さなければならないと思ってる。現代俳句に新しさを求めるならば、前述した、揺ぎ無き芭蕉の求道的俳句精神を、先ず根幹に据える必要があるのではなかろうか。その精神こそが、私の「俳句に求めるもの」に連なるのではないかと感じてる。そこで、もう一歩、その精神を掘り下げてゆきたい。(続く)

俳壇抄(2012年 冬・春季号 下段)
(全国俳句ダイジェスト 第38号)

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俳句に求めるもの その五

神田北童

芭蕉の求道的俳句精神について追求するためには、己の死生観をどの様に持つか、どの様に拘るかが重要なのではと最近気付かされた。東日本大震災では一瞬に多くの方々が御霊となった。御霊に対し不謹慎で不敬な表現であるが、この悲惨なる光景を目の当たりにして、明日は我が身であると誰もが一瞬感じたのではなかろうか。それを仏教の根底にある無常感として感じるのでは無く、己がいつか霊魂となるその日迄は、ひたすら生き貫かねばならぬと示唆されたと受け止めたい。言うまでもないことかも知れないが、死生観とは、先ずこの様に一先ず死を受け入れる事からはじまるのではなかろうか。

草田男の「万緑」を引継いだ香西照雄氏は、これに関し、「芭蕉の句・・やがて死ぬけしきは見えず蝉の声・・は無常感の裏返しとして生命への執着や讃歌が暗示されてるが、草田男はこれに対し・・生きてる生きてる汗拭き撫で見る目鼻だち・・と真正面から己が生きてることを確認し歓喜した。つまり死の恐怖からの脱出やその不安の克服は、生命への強烈な執着、現身への愛惜によりなしとげられる。」と草田男の死生観を活写してる。

草田男の言葉「作品は生み続けなければならない。此の世に避けられない死と、抑えられない愛というものが存在するが故に」がそれを裏付ける。草田男の死生観とは「生」への逆転の発想なのである。どうやら、「死は免れない」という認識を、いかに己の死生観に取り込むかが、求道的俳句精神を追及していく鍵になるのではと思えてきた。(続く)

俳壇抄(2012年 夏・秋季号 下段)
(全国俳句ダイジェスト 第39号)

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俳句に求めるもの その六

神田北童

死生観が俳句にどの様にかかわるかの草田男例を前回述べたが、それは芭蕉が俳句を通して「人生如何に生くべきか」を実現しようとした事に他ならないのである。「小我を捨て大我につけ」という言葉があるが、俳句における大我につくことの真髄を芭蕉は「笈の小文」で語ってる。神が創造した天地、森羅万象、自然を造化と呼び、造化の命に触れて謙虚に造化に従うことと、人間の有限の命を造化という無限の命に融合させて一つになろうとすることこそが、大我につくことなのだと晩年の芭蕉は明確に指摘し、作品を通して実践を試みてる。

我が身を省みずに、発言させてもらえば、芭蕉が求め実践を試みた、この「人生如何に生くべきか」を俳句を通して希求することが、これまで、この欄で私論を展開してきた「俳句に求めるもの」の到達点ではなかろうかと思う様になってきた。たった十七文字に、そんな大それた事を求めることは、到底、私の現在の力量では無理かもしれないが、少なくとも、これから目指すものに据えてみたいと思ってる。

本論からやや逸れるが、情報伝達テクノロジーの進化、マスコミ手段の発達により、現代俳句は、観光俳句大会の乱立、ゲーム競技感覚での俳句との取り組みが敷衍化しており、私はその風潮になじめなくなってきた。ましてや、この欄を借りて展開した私論等は、この時代では、時代錯誤も甚だしいと簡単に切り捨てされるであろう。この頃、「現代俳句はどこへ行くのか」という不安を抱く様になってきた。(完)

俳壇抄(2013年 冬・春季号 下段)
(全国俳句ダイジェスト 第40号)

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最晩年の芭蕉の足跡を辿る。 その1・・幻住庵

神田北童

  ・・・・幻住庵と義仲寺と落柿舎をむすぶもの・・・・

芭蕉が奥の細道の旅より戻り、死去するまでの五年間(47才〜51才)までを最晩年と考えるならば、その時、芭蕉がどの様な場所で、どの様な思いを抱き、俳句を作り、自然に接し、人と交わったのだろうかと、私なりに思いを馳せて、芭蕉ゆかりの地を訪ねてみた。

幻住庵・・・芭蕉は奥の細道の旅の翌年、47才の時(1690)に、近江蕉門の門人菅沼曲翆(近江の国膳所藩の重臣)の伯父(幻住老人・名を定知)が住んでいた庵に寄寓した。(滋賀県大津市国分二丁目)

神社(近津尾神社)が隣接している。瀬田川畔の石山寺(真言宗・大本山、近江八景の一つ)から、車で十分位の山中にある。其処は、芭蕉が記した「幻住庵の記」では、「南薫峰よりおろし、北風海を浸して涼し。比叡の山、比良の高根より辛崎の松は霞をこめて、城あり、橋あり、釣たる舟あり。」と、当時、眺望が望める地であったらしい。現実は瀬田川の東側にある国分山(国分寺址がある)、山麓の急坂中途にあり、瀬田川を挟み東面向きなので、恐らく、午後は日差しが少ない場所であろう。

芭蕉が滞在した春先より夏までの期間は涼風のふきわたる快適な環境と思えるが、芭蕉は、そこで、避暑、隠遁、療養をした訳ではないことを釈明してる。「かく言えばとて、ひたぶるに閑寂を好み、山野に跡を隠さむとにはあらず。やや病身人に倦んで、世を厭ひし人に似たり。」と明解に「幻住庵の記」に記してある。

では、何故にそこに留まり、長文の俳文をのこしたのであろうか。「幻住庵の記」は「奥の細道」とともに、芭蕉がもっとも彫心鏤骨した文章であると言われてる。在庵中に、幾度も稿を改め初稿、再稿、定稿、その他数種が現在知られてる。

奥の細道の旅で到達した、不易流行と風雅の誠の文芸観を、ここで、それを更に確固たるものとし、これからの生くべき信念にするための心の葛藤を、この在庵半年で繰り広げたのではないかと、私は勝手に推察した訳である。そして、「幻住庵の記」の末尾の文章「たどりなき風雲に身を責め、花鳥に情を労して、暫く生涯のはかり事さへなれば、終に無能無才にしてこの一筋に繋がる。

楽天は五臓の神を破り、老杜は痩せたり。賢愚文質の等しからざるも、いづれか幻の栖ならずやと、思ひ捨てて臥しぬ。先ず頼む椎の木もあり夏木立  」に至るのである。白楽天や杜甫に比べて己をへりくだった位置づけをしてるが、それは、裏を返すと芭蕉の人生観そのものであり、己を律する生き方なのである。

この時、芭蕉は近江、京、大阪一帯の大勢の門人に囲まれて、実質的に、経済的にも恵まれ、幸せな生活であったと思う。大津の隣町の膳所の義仲寺に、芭蕉のために無名庵(翁堂)があり、更に京都嵯峨野の一角の落柿舎も芭蕉の文筆活動の拠点として提供されたのではと思う。そこで、芭蕉は残された人生をいかに生き、俳諧の行末の根幹はどうあるべきかを、愚鈍に塾考したのであろう。現実の世界を幻の住処にしないという決意が根底にあったのだと、私は思う。

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最晩年の芭蕉の足跡を辿る。 その2・・義仲寺

神田北童

  ・・・・幻住庵と義仲寺と落柿舎をむすぶもの・・・・

芭蕉は胆石症を持病としており、しばしば胆嚢炎による右腹部から背中にかけての痛みに悩まされていたと記録に残されてる。この病により便秘をして、長雪隠による痔の出血もあった様だ。更に風邪もよく引いた様である。特に、奥の細道の長旅での無理が重なったから、幻住庵ではその療養を兼ねて日々を送ったと思われる。

元禄三年の夏から秋にかけて幻住庵に滞在し、その後、故郷の伊賀・上野(三重県、上野市)を訪ねたり、義仲寺(義仲の墓所に巴御前が庵を結び、無名庵とも呼ぶ。)を訪ねたり、大津周辺の門人(去来・凡兆・曲水・珍磧・乙州・正秀・成秀・丈草等)京、大阪、名古屋、金沢から来訪の門人と交流した。記録によると、元禄3年7.23〜9.12・9.28・9.29、元禄4年6.25〜9.27迄、義仲寺、無名庵に滞在している。そして、8月15日を中心に、月見の句会を門人達と行っている。

芭蕉代表句として生涯残されたものは約一千句弱であるが、この大津周辺で詠まれたものが、その一割を占めており、この地を晩年に執着した芭蕉の気持がうかがえる。

大津周辺が故郷に近いこと、優秀な門人が大勢いたこと、風土、環境が蕉風俳諧の目指した「さび・しをり・ほそみ・かるみ」を生み出し、創作活動を進める為の場に適していたこと等があげられるが、私見としては、芭蕉を慕う門人が沢山をり、教えを乞うて集ってきたことにあると思っている。

芭蕉は、最晩年、さび、かるみに重きをおいて作品を残してると思うが、その思いが享年三十一歳で討ち死にした木曽義仲への同情となり、哀悼の心となって、義仲の墓の隣に、己の埋葬を遺言としたのであると言われている。

現在の義仲寺は、膳所(ぜぜ)市街の只中にあり、市井の中の小さな寺でしかすぎないが、芭蕉が訪れた当時は、この地は粟津ケ原といわれ、琵琶湖に面した景勝の地であったと聞く。先頃、義仲寺を訪れて手にした観覧券には、当時の風景(芭蕉翁絵詞伝、木曽塚の図・・1792狩野正栄筆)が印刷されている。それを見ると、義仲寺の塀の間際まで、琵琶湖の細波が押し寄せている。そして、文部省指定史跡・源家大将軍木曽義仲公御墓所・俳聖松尾芭蕉翁御墓所と記されてる。

義仲寺とその周辺で詠まれた芭蕉の代表句を次に抜粋する。さび、かるみが句の余韻として、句意に象徴化されてるかを確かめながら味読したい。

義仲寺周辺で詠まれた芭蕉の代表句
     
芭蕉42歳山路来て何やらゆかし菫草辛崎の松は花より朧にて
  45歳五月雨に隠れぬものや瀬田の橋世の夏や湖水に浮ぶ波の上
  47歳行く春を近江の人と惜しみける曙はまだ紫にほととぎす
(元禄3年)先ず頼む椎の木もあり夏木立やがて死ぬけしきは見えず蝉の声
 明月や座に美しき顔もなし白髪抜く枕の下やきりぎりす
 病雁の夜寒に落ちて旅寝かな石山の石にたばしる霰かな
 木曽の情雪や生えぬく春の草鎖(じょう)明けて月差し入れよ浮御堂
   

補遺・メモ(参考書・・芭蕉俳論精講、飯野哲二著・芭蕉ハンドブック、尾形仂著)

さび・しをり・ほそみ・・・芭蕉俳論の根幹、「不易流行・風雅の誠」論の他に、もうひとつの理念が、この「さび・しをり・ほそみ」である。

しをり、ほそみ、は「さび」から派生したものである。「さび」は一般的な「わび」とは異なり、「さび」は形象化された句の色調(ニューアンス)である。

(芭蕉が去来の句、「花守や白き頭をつきあはせ」・・にたいし「さび色よくあらあらはれたり」と評した。) 閑寂と混同されがちであるが、閑寂は「さび」の要因をなす心境を指すものであって、「さび」そのもではない。去来は「さびは句の色也、閑寂なる句を云うにあらず」と言ってる。

「さび」というものは、日本文芸の伝統美や、漢詩に表れている風韻や、道教仏教思想などが渾然一体化して形成されたいわゆる蕉風俳諧なのである。その本質、特性を端的に解説することは困難なのである。閑寂の中に精神的な充実を求める作者の精神が一句の情調として顕れたものである。

かるみ・・・芭蕉が円熟期以後、終生の目標とした俳句理念。最晩年は、この理念をつらぬく為に、素直な自然観照による平明な詠みぶりが志向された。

点取り俳諧や前句付けの作為的な句作りに対し、日常の生活の中に詩を見出して、平明な言葉で表現する道を模索した。芭蕉の言葉「今思う体は浅き砂川をみるごとく、句の形、付け心ともに軽きなり。」が、その精神をあらわしてる。この軽みに関しては、山本健吉の興味ある文章があるので下記する。

「小座敷でささやかな集いの草の茶の湯は、「軽み」の極致なのだが、「軽み」とは結局もっとも自由に、溌剌と嬉戯する「命」の輝きを得るための、日常の工夫なのである。俳諧とても命と「軽み」を目指して、百韻千句の連歌興行が三十六句の歌仙形式というささやかなものに移った。」

この言葉を下地に考えると、「軽み」は表面的な情感の表現の底流に作者の命の輝きを見出さねばならないのであろうか。一期一会の純度の高い時間と空間を煮詰めだしている

芭蕉の本来の姿を見出さねばならないのかもしれない。

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最晩年の芭蕉の足跡を辿る。 その3・・落柿舎

神田北童

  ・・・・幻住庵と義仲寺と落柿舎をむすぶもの・・・・

芭蕉が義仲寺に己の埋葬を遺言した心境を私なりに推量すると、さび・かるみがその根底をなした憐憫・無常感ではなかろうかと思っているが、落柿舎を訪ねた折の心境は、その自然環境や、人間関係を通して、さび・かろみの要因となる、閑寂さ、清閑さと向きあい、時にはそれを楽しむという気持を抱いたのでなかろうか。

ちなみに、落柿舎で著した嵯峨日記の一日目に、芭蕉は「我が貧賎をわすれて、清閑に楽しむ」と記しており、清閑、閑寂の中に、しばし没頭しようとする決意を窺うことが出来る。閑寂は「さび」の要因をなす心境を指すものであり「さび」そのものでは無いことは、補遺・メモに記したが、この閑寂に包まれている場所が京都の嵯峨野にある落柿舎である。

現在と芭蕉の時代をくらべても、さほど変わらぬ自然環境にあるのでは思われる位、現存の落柿舎は閑寂な佇まいである。芭蕉が四十七才〜五十一才迄の期間は、この落柿舎と義仲寺をしばしば訪れたと思われるが、特に四十八才の時、約二週間の落柿舎での滞在記録が「嵯峨日記」として克明に残されている。(元禄4年 4.18〜5.4迄の記録)その一節から芭蕉の心境を探ってみたい。

卯月廿二日 朝の間雨降る。今日は人もなく、さびしきままに、むだ書きして遊ぶ。
その言葉・・喪に居る者は悲しびを主とし、酒を飲む者は楽しみを主とす。「さびしさなくは憂からまし」と西上人の詠み侍るは、さびしさを主なるべし。

------------------ 中 略 ------------------

憂き我を寂しがらせよ閑古鳥 とは、ある寺に独り居て言ひし句なり。

口語訳・尾形仂著芭蕉ハンドブックより・・・
「親しい人を喪って喪にこもっている者は、悲しみを主人とし、自分はその客となって悲しみと向かい合い、酒を飲む者は楽しみを主人とし、楽しみと向かい合う」(と荘子に見える)「さびしさがなかったなら、いっそう住むのが辛いだろう」と西行上人が詠んだのは、寂しさを主人として、これと対話することによって心を充たしていたのだろ。「憂き我を寂しがらせよ閑古鳥」とは、ある寺に独り座して詠んだ句である。

  • 註 荘子・漁夫に「酒ヲ飲ムハ楽ヲ以テ主ト為し、喪ニ処ルハ哀ヲ以テ主ト為ス」
  • 註 山家集・上・「とふ人も思ひたえたる山里のさびしさなくは住み憂からまし」

全く、私流の解釈であるが、この嵯峨日記の一節は「寂しさ」に負けずに「寂しさ」に向きあうことの大切さを言わんとしているのであると思うが、現実には、我等、凡愚の徒はその様な場面では冷静さを失ってしまうだろう。その場合の心の持ち方を、芭蕉は示唆してくれてると先ずは解釈しておこう。この世では「寂しさ」が果てることは絶対に無いのであるが、その寂しさとの向きあい方の一つとして、最近、多くの人に歌われている「千の風になって」の歌詞の中で、詩人・新井満氏は、この点を具体的に教えてくれてる事も付記しておきたい。

芭蕉の年譜をみると、48才の時は、春は帰郷したり大津周辺、落柿舎に滞在、夏は「猿蓑・七部集の五巻」を刊行、秋は義仲寺で月見の会、九月下旬に江戸へ帰る旅路について、桃隣・支考を伴い三年ぶりに江戸へと戻った。という様に忙しい一年であり、決して寂しさに籠ったり、清閑なる日々ばかりを過ごしていた訳ではない。嵯峨日記の18日間を通読しても、凡兆、去来、千那、史邦、丈草、李由、曾良等が入れ替わり落柿舎を訪ねて来てをり、門人達との交流にも快く対応していた芭蕉の人柄がよく判る。

卯月廿八日の日記には門人杜国の夢を見て、覚めて又袂をしぼる寂しさ、哀しみを率直に記している。この様に、芭蕉には心の絆を結んだ多くの門人がをり、独り寂しさに取り残される環境はないと推測出来る。経済的にも、去来等の心篤い支援者がいたので、比較的幸せな晩年であったと思う。それにも拘わらず、「憂き我を寂しがらせよ閑古鳥」と敢えて一句を生みだした点に、芭蕉の非凡なる人物像が浮かんでくる訳である。芭蕉の晩年の決意とも受け取れる、この句については、芭蕉の拘りの経過がある。元禄二年に伊勢、長島・大智院での挨拶句、元禄三年に「幻住庵の記」の初稿にその改案が登場し、元禄四年に、この嵯峨日記で「憂き我を寂しがらせよ閑古鳥」の一句は完結したのである。

註・「幻住庵の記」初稿かと思われる「芭蕉翁眞蹟拾遺」に収めるものの中に、「ほととぎすしばしば過ぐるほど、宿かし鳥の便さへあるを、木つつきのつつくともいでじ。かっこどりわれをさびしがらせなどそぞろに興じて」とあり、ほぼ同様の文は、再稿かと思われる米澤元健蔵眞蹟にも、また「和漢文操」に収める「幻住庵賦」にも出ている。

註・伊勢桑名郡長島の第智院に芭蕉の眞蹟が現存し、それには「伊勢長島大智院ニ信宿ス、うきわれをさびしがらせよ秋の寺」とある。・・山本健吉著「芭蕉・その鑑賞と批評」より。

芭蕉は、この句を通して寂しさ脱却するために寂しさ、即ち、閑古鳥が呼び掛ける声が芭蕉の寂しさを晴らしてくれる「寂しさ」であると言ってるのであり、言い換えれば、閑古鳥の声に花鳥と遊び、造化を友とする心が啓けるのだと、山本健吉は批評してる。

私流に解釈すると、寂しさからは決して逃れられるべきもでない限り、己れ独りで寂しさの中に埋もれるのではなくて、もっとオープンに寂しさを知ることにより、寂しさから脱却できるということではなかろうか。山本健吉流に言えば、「自分の密室に閉ざされた孤独(寂しさ)ではなくて、世界に開かれ他者とつながろうとする孤独(寂しさ)」なのである。

具体的にはどうするかは、各人、夫々が考えることとして、芭蕉はこの様な心境を積み重ねた上で、最晩年に到達した蕉風俳諧の理念の「さび・しをり・ほそみ」が発想されたのであると考えられる。その理念を育んでくれた環境が、幻住庵。義仲寺、無名庵。落柿舎であり、芭蕉をとりまく大勢の門人だったのである。

最後に、芭蕉は厭世、遁世俳人ではなく、むしろ、多くの人と交流して、篤き人間関係を築きながら、人間の弱点をみつめて、その本質を見抜き、人間の生き貫く力とは何かを、俳句や文章のみでなく、彼の行動を以って示唆してくれたことを、ここに強調して擱筆にしたい。

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補足 最晩年の芭蕉の足跡を辿る。 その4・・芭蕉翁の埋葬

神田北童

  ・・・・幻住庵と義仲寺と落柿舎をむすぶもの・・・・

「芭蕉が義仲寺に己の埋葬を遺言した心境を私なりに推量すると、さび・かるみがその根底をなした憐憫・無常感ではなかろうかと思っている」と、「その3」で述べたが、果たしてそうであったのだろうかと、頭の隅に疑問が残っていたので、後日、これに関する文献、資料を調べて見た。

芭蕉の臨終間際については、各務(かがみ)支考著「笈日記」と榎本基角著「芭蕉翁終焉記」があり、これに基づきいろいろと分析されている。

その一つ、「永遠の旅人」説がある。芭蕉は故郷、伊賀・上野から疎外された訳でもないのに、何故、近江の義仲寺を選んだのだろうか。それは、精神的な次元に存在した故郷喪失感情・・すなわち、人生も芸術も「永遠の旅人」を志向したからであるといわれてる。

(白石悌三・田中義信著「永遠の旅人・松尾芭蕉」)

近江は東海道と北陸道の交差する交通の要所であり、その地勢はつねに旅へ開かれた貌をしめしてる。と書かれてる。(故郷に埋葬されると、その事実が故郷を喪失した旅人にはならない。)亡くなる四日前、元禄七年十月八日に作った句「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」は、この「永遠の旅人」の心境を如実に表現してる。

その二つとして、木曽義仲は武士の中でも、荒々しく波乱に富んだ梟雄(きょうゆう)であったと言われ、その末期も悲惨で合った訳で、壮絶な最期は、死しても闘う気迫の残るものだったと想像できる。芭蕉も、その末期に至っても、風雅の誠に執着しようとする精神的な闘いは衰えていなかった訳で、笈日記から想定して「生死の大事を前にして、尚、風雅の執着の断ちがたき思いを述べた。臨終に至って執着を去って澄み通った安心の中に瞑目したい願いと、その際なお風雅に執着する一念との相克は、芭蕉生涯の縮図ともいうべく、生涯の悩みはこの一点に凝集せられているとも言える。」

新芭蕉講座・加藤楸邨他著

これらを通して考えると、義仲の死にたいしての決意を、芭蕉は十分に推量し汲み取り、かたくなに共鳴する気持が義仲寺へ葬る遺言になったのではと私は推量した。

上述の二つの考え方についても、理解できるが、いずれにしても、佳き門人に多く囲まれて、清閑な環境の中に建つ、無名庵(義仲寺)は芭蕉にとって訪れやすい、住みやすい、心地よい終焉の場所であったのでは、とごく常識的な結論を、私の最後の結論としたい。

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