句集「今生」に寄せて

「黒姫」主宰 神田北童

川原澄子さんの人と成りを知ったのは、今から十五年前、私が俳誌「黒姫」の編集を担当した時代に遡る。それまでは、誌上で俳句を拝見するのみで、澄子さんが「黒姫」とどの様に関わり合ってきたか全く知らなかった。当時、黒姫誌の編集に新たな連載記事が必要で、たまたま、澄子さんより「茶の本の贅言(むだごと)」・カメリアの会・川原澄子他共著・・の贈呈を受けた事を切っ掛けに、エッセー執筆を依頼をしたことが出会いの端緒である。

「茶の本」は岡倉天心の不朽の名著といわれる本で、この著者である天心像を掘り下げて貰うために、黒姫誌に「茶の本を読む」というタイトルで七年間に亘りエッセーを連載してもらった。(この記事は後日、「茶の本を味わう」で単行本になる)この七年間の執筆者と編集者との交流で、川原澄子さんの人間像に近づくことができた。

彼女が黒姫の創刊主宰、渡邊幻魚師に、数年間、長野市在住時代に直接指導を受けたということ、茶道を長きに亘り研鑽し、現在は教授であること、日本ツバキ協会の理事として長年、協会発展の為に尽力されてきたこと等、澄子さんを知れば知るほど、そのバイタリテイ―には脱帽するのみである。あの細身の体のどこにその様なパワーがあるのかと不思議に思えた。その澄子さんから、昨年の黒姫交流俳句会の際、句集発行の相談を受けてから一年、漸く、句集「今生」を発行する運びになった。

句集「今生」発行にあたり、先ず、句集掲載候補作品を拝見した。句歴四十年のベテランなので、作られた句数も多く、年代別に揃えられた初稿作品は、かなり厳選され、佳句が並び、初稿の手直しで、そのまま刊行できると感じた。そこで、句集を意識的に特徴づけするために、自分史の句集と明確に位置づけするかどうかをお聞きしたら、そうであると即座に返答されたので、掲載句へのアドバイスをさせて頂くにあたり、先ず、作者の意志を、大切に尊重することにして、作品をねんごろに拝見した。


自分史を句集にするという事は、ある意味では勇気が必要である。自分の人生の来し方を披歴する訳で、生病老死、悲喜こもごも含め、自分の生涯の記録を公開するのであり、見方を変えると、自分の運命の記録公開なのである。その意味で作者自ら命名した、この句集の「今生」という名は相応しいと感じた。ニーチェの言葉に「運命愛」(アモル・フアテイ)という一語がある。聞きかじりであるが、その意味は「自分の運命に耐えて、それから遁れるのでは無く愛することである。」と記憶してるが、まさに、句集「今生」は、いろいろな意味で「運命愛」に満ちた作品であると思ってる。

それでは、掲載作品の中で、特に私の印象に残った句を年代順に抽出して、感想を述べさせていただく。

「記憶の日」より

記憶の日
       
 クロロホルム一瞬凍の闇の底  
 痛み知り生きるとは知る寒と知る  
 母の顔見てまた奈落寒の底  
 胸は鉄鎧ひたるかやはた凍つか  
 命一つ戻りし部屋の冬薔薇  
 赤きものみな目に痛し冬苺  

昭和四十四年に受けた心臓手術の記憶がリアルに詠われてる。現代の高度医療技術に守られてる時代と異なり、当時の心臓手術には死を賭す不安があったと思うが、その状況を克明に句に残した澄子さんの詩魂と執念には感嘆した。生硬な表現が返って現実感を帯びている。

「軒氷柱・一九七九年以前」より

軒氷柱
       
 淋しさや日暮るるまでも霜消えず  
 父は句を母は絵遺しひなまつり  
 いくさ故父は死にたり十二月八日  

澄子さんのお父上は、秀峯の号を持つ俳人で、昭和十九年に三十六才で戦病死された経緯が、黒姫二百六十七号に「私の八月十五日」という題で、掲載されている。それによると、遺品の「季寄せ」と短冊が澄子さんと俳句をつなぐ細い糸であるとの事で、八才の時失った父上が俳句開眼をしたのであろうか。その様な運命の絆に結ばれていたのであろう。

       
 塔影す雪の寺域や栗鼠走る (塩田平・前山寺)
 火祭の陀羅尼とどろく法師池 (飯綱火祭)
 炬火かざし寄手はげしく雪を蹴る (野沢道祖神祭)
 冥界も今若葉せり十王堂 (牛伏寺吟行)

黒姫創刊主宰、渡邊幻魚師に直々に句作指導を受けた時代の句。長野県の北信・東中信地方を代表する地点を吟行して句作してる。手堅い写生句である。

「寒牡丹・一九八六〜一九八九年」より

寒牡丹
       
 小春日や役民のごとひた歩く (飛鳥路)
 石舞台薄日に冬の蝶舞へり  
 悴める手に受く号外昭和終ふ (昭和終焉)
 煮凝りや父の戦死も遠き事  

作者は壮年期を迎え、句作の外、茶道、日本ツバキ協会との関り、旅行、執筆活動等、多面的な活躍を始めた時代であろう。飛鳥路を辿り昭和の終焉を迎え、彼女の心に期するものは何だったのだろうか。

「鱗文・一九八九〜一九九五年」より

鱗 文
       
 濁世よと阿修羅がまなざし冬紅葉 (興福寺)
 七夕竹ささげて母の後につく  
 存へて気比の松原夕凪に (若狭再訪)
 しづけさや劫初のごとき霧の海  
 前の世は紙魚かもしれずページ繰る  
 転生を夢みし日あり柳萌ゆ  
 恋の字のなきが淋しさ星祭  
 晩学のひとつにワープロ秋灯  
 誰が身を飾りし古着空つ風 (世田谷ボロ市)

写生句を主流とする句風の作品の中に、心象句が現れてきた。多面的な交流の中での様々な人達との出逢いを通し、澄子さんは確実に今後の己の生き方が見えはじめた時期の句だと察知した。又、執筆・手紙等は手書きに拘りがあり、晩学のワープロ修得には大変に苦労した様である。

「酔芙蓉(一九九六〜二〇〇二年)」より

酔芙蓉
       
 古きもの捨てきれぬ性日短  
 靖国の蚊にさされけりもしや父  
 初釜や衣ずれを聞く襖越し  
 菓子の色淡彩になり風炉点前  
 釣釜や柄杓掛くればゆらぎ止む  
 落椿男波よせては引浚ふ  
 侘助の紅の尖りよ咲くは明日  
 冬椿濃きが海側女坂  
 一句得て羽觴引き寄す薫風裡 (小諸ワイナリー)
 蟇和せり水音と夜半の郡上節 (郡上八幡)

作者は還暦を過ぎ、茶道と椿と俳句へと、並々ならぬ熱意(執念というべきか)を抱きつつ傾倒していく様が句に見え隠れしている。各々の道は久遠の道程であるからこそ、その求道精神をひそかに燃やす彼女の控え目な性格も句姿に現れてる。又、御尊父への思慕も変わらず、「靖国の蚊にさされけりもしや父」の一句は、靖国神社の盆行事「みたままつり」に献灯されたとのこと。そして、黒姫年間行事恒例の交流俳句会には、必ず毎年、東京から長野県へ出向いて参加されてる。小諸、郡上八幡の句はその時の作品。

「白湯所望(二〇〇三〜二〇〇五年)」より

白湯所望
       
 竹生島船寄する間に秋時雨 (琵琶湖・竹生島)
 その栄華庭のみ残り水澄める (一乗谷朝倉館跡)
 尖塔(ミナレット)の祈りに目覚む初明り (エジプト)
 遮那王が背比べ石に木々芽吹く (鞍馬寺)
 椿真赤殉教語る島言葉 (五島列島)
 蒼天や円き王陵芝枯るる (百済古都)
 面影や椿桜も白き供華 (悼・安達?子様)
 古茶新茶汲みし歳月一書成る 「茶の本を味わう」上梓

この章の三年間は、海外及び日本各地への旅、自著「茶の本を味わう」刊行、黒姫三百五十号記念事業、澄子さんが理事を務める、日本ツバキ協会名誉会長安達?子氏の逝去等、自分史の記録として残さねばならない、重大な出来事に遭遇したのではなかろうか。時間軸の密度濃い期間であったのだろう。

冬椿(二〇〇六〜二〇一二)」より

冬 椿
       
 冷し馬岸の木の間の包(パオ)いくつ (シルクロード)
 身に沁むや菅公の看し瓦やも (大宰府)
 雲動く如き群あり剪毛期 (英国コーンウオール)
 時満ちて落つ紅椿しきなみに (越中椿探訪)
 夏草や旧駅名の道しるべ (野尻湖吟行)
 言訳はしない生き方冬椿  
 耀かに掉尾の椿緋の千重に  
 冬椿友が形見に袖通す  
 今生はよかりしとせん紅椿  

澄子さんの最近の六年間は、ツバキ協会理事として、東奔西走の傍ら、表千家茶道教授としての日々、更に句作と多忙極める毎日を過ごされたと拝察する。「冬椿」章に掲載の句は、その様な多忙な環境で作られた人生の克明なる記録である。此の章での椿の句を抜粋してみて感じた事は、「椿」が彼女の運命愛(アモル・フアテイ)を支える精神的な力になって来たのでは、ということである。

澄子さんの著書「茶の本を味わう」の一節に、「茶の湯には、大きく分けて炉と風炉の二つの季節がる。・・・・・・炉の代表的花が椿。茶会記に記載の花の第一が椿で四十一%を占める。」とあるが、茶道と椿とは、古来、密接なつながりを持って来た事を知ることができる。古希を迎えて、長年、情熱を持って研鑽されてきた「茶」「椿」の道と、「俳句」の道が三位一体となり、この句集上梓を機に、新たな一本の道が開けるのではないかと私は予感してる。

私宛の手紙に「思い出の句を残して置きたくて、自句に甘いとお叱りをいただきそうです。難解な句も、それが私だと開き直る訳ではありませんが、この句集に入れておこうと思います。」と記されて来たが、澄子さんの細身の身体に潜む意志の強さが、これを機会に、今後の新たな道を切り開くと信じてる。最後に、彼女の著書の一節「さまざまな出逢による、その折りの心の高揚や息のあった瞬間の幸福感など書き留められなかった部分が、残された作品より大切だ。」(「茶の本を味わう」23ページ)を借りて私の感想の結語としたい。

澄子さんの貴重な人生の軌跡を、私が恣意的な解釈まじえて拙文を書き連ねましたことを、ここに、改めてお詫びして筆を擱きます。  今後の更なる御活躍を期待します。

二○一二年十月十日